金よりも大事なもの。
梅雨。この季節になると例年よろしくモチベーションが低くなる。何に対しても億劫になる。
それはなぜか?答えは単純明快
いつ何時外を見ても雨。雨。雨。
効果不幸か、今年はコロナ禍のせいで自粛を余儀なくされている人も多いことだろう。どうせ家に引きこもって画面と睨めっこするのだから外の天気など蚊ほども気にならない、なんて人もいるだろうが全員がそうではない。
コロナ?知らない子ですね(笑)なんて死んだ目をしながら外回りの仕事をこなす人も多い。
かく言う私もリモートワークなんて概念は存在しないと言わんばかりに普段通り出勤をする。
最近では、世間はもうコロナを忘却しかけているのではないか。都心部に住んでいる人以外はコロナの影響などほぼ気なしなくっているのではないのか。「あ〜、雨だりぃ」なんてため息混じりに愚痴をこぼしているのではなかろうか。「一応まだコロナが完全に収まったわけじゃないし、世間の目もあるから…」という理由で表面では気にしてマスクや消毒、パーソナルスペースの管理をしているというだけなのではないかと私は思う。恐らく、いや確実に大抵の人はコロナが怖いのではなく世間の目、あるいは世論が怖かっただけだと思う。だからみんなが怖がるなら私も倣って怖がろう。そんな考えの人ばかりだと思う。私がそうだ。実際、家の近所でコロナ感染者がでたとニュースになったところでなんとも思わなかった。特に手洗いうがいを気をつけた訳では無いし、感染予防に努めた訳でもない。ただ大型ショッピングモールや人が密集するような場所に赴くときはマスクを必ず着用した。それは感染予防のためではなく、「マスクを着けてない!」という行為が今の世論では禁忌になっており、その周りの目を気にしたために着けていた。
しかしコロナが徐々に収まってきた今、世論の注目の的は一体なんだろうか。先述した通り、完全にコロナが収まった訳では決してない。第2のクラスターなど、依然として警戒・注意しなければ行けないというのは火を見るより明らかなのである。けれども、どうやら世間のコロナに対する関心というのは確実に薄まっている。梅雨による悪天候、大雨や洪水による災害に目を向けている人が多いのではないか。人間は自分で考えているよりも随分と早く忘却する。そして目の前のことに目移りするのだ。
要はその時なにを意識するか、ということだ。
不景気が続く昨今、「人生で一番大切なのは金だ!」と豪語している人が大勢存在する。金が大切なのは私も大いに賛同する。金がなくとも手に入るものは多く存在するが、金があればより簡単に手に入るのも事実。そもそも、手に入れる手間を金で買えるのだ。どれだけ理想論や綺麗事を並べたところで、現在の人間社会で生きていくなら無一文では無理があるだろう。故に、「人生で一番大切なのは金である」という意見は至極真っ当であるといえよう。
しかしそう短絡的に答えを出していいものか。
人生とは、金とはそう単純なものなのか。
私はこう思う。「人生で一番大切なのは価値観である」と。
金がなく、困窮し、貧しい生活を強いられたとしても、その時の価値観次第でどうにでもなるのではないのか。つまり、価値観さえ制御できていれば金など小さな問題に過ぎないのではないかと私は考える。
雨が好きだと思う者、嫌いだと思う者。
ファストフードを美味いと感じる者、そうでない者。
人によってそれぞれ価値観は大いに異なる。それは金を対象にしたときでも同じだ。
1万円を大金だと思う者、はした金だと思う者。
大金を稼ぐのは大変だが、価値観を変えるのは簡単だ。人間その気になれば一日で十分価値観は変えられる。
金を大切に思うのは理解できるが、それは人生の本質ではないのではないか。
人生の本質は少なくとも金ではない。その人自身だ。
その人がより楽しく、より潤沢に人生を歩むために金を欲し、その為に仕事をする。
よく考えて欲しい。金は所詮道具に過ぎないのだ。
道具を使役するのは他でもない自分なのだ。
金を価値のあるものとして捉えるのか、価値のあるものとの引換券として捉えるのか。
人生の全てとして捉えるのか、+αの道具として捉えるのか。
それは人によって異なる。正解なんて存在しない。
だが私の価値観としては「金そのものに価値などない」と言える。
私も貧しい生活を長く続けてきた。そのせいで金に囚われたこともあった。しかしその反面、金などなくとも存外人生を謳歌できることにも気づけた。
500万円の時計と5000円の時計。どちらを使用したいか聞かれれば、私は5000円の時計を選ぶ。なぜなら、「時計」としての機能はどちらも同じだからだ。時計として売られている以上、その機能は担保されている。であるならば、5000円の時計も500万円の時計も同一のものだといえる。そして500万円の時計は使用するのに適当でないと考える。ケースに入れ、大切に保管するのであれば、価値が上がれば売却して利益を生み出すこともできるが、使用するのであればそうはいかない。当然傷もつくし、「使用歴あり」とレッテルが貼られ売却しても理想的な金額はつかないだろう。一方、5000円の時計は500万円の時計に比べて大変気兼ねなく使用出来る。傷が付いても水没しても変色しても損害は極限まで少ない。時計は常日頃着用するものであるのに、どうして緊張しながら着用しなければならないのか。500万円をはした金だと認識できるのなら乱暴に扱っても損害などないと思うが、多くの人はそうではない。500万円という大金を積もうが5000円の時計を買おうが機能面で遜色ないというのであれば、より気兼ねなく楽に着用できる5000円の時計を選ばない手はない。仮に私が金の亡者であり、500万円をはした金だと認識していたとしても5000円の時計を選ぶ。理由は先述した通りだ。「時計」という機能が手に入ればいいだけなのだから。
話を戻すが要点は「本質」だ。人生を楽しむのに金はあまり関係ない。金を使わなくても人生を楽しめる。
ボロボロの車に乗っても楽しい。
ファストフードもとても美味しい。
雨は世界が落ち着くようで好きだ。
500円で買った服もカッコよくて気に入っている。
私はその時の環境を誰よりも楽しめている自信がある。
私が楽しむのに金など些細なことだ。
ないものねだりをするより、現状を最大限活用した方が楽しめる。
金がなければ楽しめない!と訴えるのではなく、
金がなくとも楽しむことが重要ではないのか。
私はそう思う。